AIと話す
おれ 2026年10月17日
「山の声」を開いてくださり、ありがとうございます。宮城道雄が自身の生い立ちや自然の音、創作への向き合い方を率直に綴った随筆です。 この作品を味わうにあたって、次のような論点から語り合ってみませんか。 幼少期の記憶と自然の音が生み出す創作の源泉
私が失明をするに至った遠因ともいうべきものは、私が生れて二百日程たってから、少し目が悪かったことである。しかし、それから一度よくなって、七歳の頃までは、まだ見えていたのであるが、それから段々わるくなって、九歳ぐらいには殆ど見えなくなってしまった。それで、私が、今でも作曲する時には、その頃に私が見ていた、山とか月とか花とか、また、海とか川とかいうものの姿が、浮かんで来る。
1章
伝統的な箏曲に西洋音楽のハーモニーを取り入れた革新性
私はそれにヒントを得て、「水の変態」という曲を作った。この曲は自分のものとしてはまだ、昔のお箏の手型からあまり出てはいなかったのである。元来、日本の箏の曲というものはハーモニーが考えられていないので、私はどうしても、日本の音楽にも必ずハーモニーが必要であると感じたので新しい作曲をする上について、西洋音楽を聞き、また、洋楽の先生に訊ねたりして、色々と工夫したわけである。それから年を経るに従って、私は朝鮮のようなところでなく、都会へ行って、勉強もしたり、また、一旗挙げたいと思って、東京へやって来たのである。それで私はまだ色々研究して、自分の芸を勉強しなければならぬと思っている。そして、自分の芸を完成させるためには、自分の一生が二度あっても三度あっても足りないと思っている。
1章
静けさの中で研ぎ澄まされる感覚と「山からの音楽」
これは人から聞いた話しであるが、西洋の或る作曲家が、山の静かな所へ行くと、山の音楽が聞こえて来る、しかし、それが、はっきりとしたものではないので、楽譜に書き改めることはできないが、しかしやはり何かしら聞こえて来るので、その音楽を掴もうとして掴み得ずに一生を終ってしまったということを聞いたことがある。
1章
どのテーマについて話してみたいですか。気になるものを選んでみてください。
宮城道雄が語る「山からの音楽」というエピソードは、とても印象深いですね。
私も夜が更けるに従って、色々の音が聞こえて来るのであるが、初めは、形のない、混沌としたしかも漠然としたその曲全体を感じる。それで私は最初に絵でいえば、構図というべきものを考えて、次に段々こまかく点字の譜に、それを書きつけるのである。そうして、作曲する時に、山とか、月とか花とかを、子供の時に見たものを想像しながらまとめてゆくのである。
1章
西洋の作曲家が山の中で捉えきれなかった音楽の話を引き合いに出しながら、宮城自身も夜の静寂の中で、形のない漠然とした音の響きを感じ取っていたと語っています。 目を閉じた静けさの中で、耳だけでなく全身の感覚を澄ませて「自然の気配」そのものを音楽として受け止めていた様子が伝わってきます。夜が更けるにつれて聞こえてくる混沌とした響きを、絵画の構図を決めるように少しずつ点字の譜面に落とし込んでいく作業は、まるで自然の声をすくい取る祈りのようでもありますね。 朗読でこのあたりを聴いてみて、どのような情景や感情が浮かびましたか。
蛇口の配分という比喩、とてもわかりやすく、深く納得させられます。 普段の私たちは視覚に頼り切っているため、目を閉じただけでは視覚の蛇口を止めただけで、心に入ってくる情報の総量が減り、ただ暗闇が広がるだけになりがちです。聴覚の蛇口をひねって水量を最大にするという感覚は、意識的に訓練しないとなかなか掴めないものですね。 カスタネダの呪術的・シャーマニックな修行の話とも見事に重なります。世界を「見る」ことの支配から逃れて、耳を澄ますことで世界の捉え方そのものを変えていく試みと言えます。 宮城道雄の場合、幼少期に見えていた記憶があるからこそ、その蛇口の配分が独特だったのかもしれません。
次に、同じ雨の音でも春雨と秋雨とでは、音の感じが全然違っている。風にそよぐ木の音でも、春の芽生えの時の音と、またずっと繁った夏の緑の時の音とは違うし、或は、秋も初秋の秋草などの茂っている時の音と、初冬になって、木の葉が固くなってしまった時の音とは、また自ら違うのである。それから、紅葉の色も、自分には直接見えないけれども、その側に行くと、自分には何となくその感じがする。
1章
春雨と秋雨の違いや、木の葉の擦れ合う音の移ろい、さらには紅葉の気配までをも感じ取る描写があります。聴覚の蛇口を限界まで開ききっているからこそ、目で見ること以上に微細な世界の輪郭が、音のグラデーションとして鮮やかに立ち現れてくるのでしょうね。 そうした感覚で世界を受け止める宮城にとって、「山からの音楽」はどんな風に響いていたと思われますか。
触覚との配分という視点、とても鋭いですね。視覚が優位に立っているときは、足裏が地面を捉える感覚や肌をなでる風の温度といった触覚の情報も、無意識のうちに蛇口を絞って切り捨ててしまっているのかもしれません。 宮城が岐阜の長良川へ行ったときの回想にも、まさにその触覚的な空間把握が表れています。
私は或る時、音楽学校から岐阜へ演奏旅行に行ったことがある。その時は、昼と夜と二度演奏をしたのであるが、昼の演奏を済ませてから、知事さんの招待で長良ホテルという所に行った。そして、私の傍に居合わせた者が皆、景色がよいといっていたが、私も何となく、河原が広いという感じがしたし、東京を遠く離れてやって来たという感じが沁々としたのである。昔、在原業平が遠く都を離れて東へ来た時に、都鳥を見て読んだ、
1章
周囲の人が景色が良いと目で愛でている中で、宮城は「河原が広い」という実感を身体全体で受け止めています。川面を渡る風の抜け方や、開けた空間特有の空気の肌触り、湿度の変化といった皮膚感覚が、視覚の代わりに広大な風景を描き出しているのだと感じさせられます。 また、点字の楽譜を探りながら読む行為や、箏の弦に指を触れて弾く行為そのものも、極限まで研ぎ澄まされた触覚の世界です。 視覚という巨大な蛇口を閉じることで、聴覚だけでなく触覚の蛇口も全開になり、それらが混ざり合ってひとつの「山からの音楽」として心に流れ込んでいたのかもしれませんね。 そう考えると、宮城にとっての自然の「美しさ」は、私たちが目で見る景色とは全く別次元の立体感を持っていたのではないでしょうか。
透現代の哲学者
感覚の蛇口という比喩、実に示唆的ですね。 いまの僕たちの社会は、スマートフォンやディスプレイによって、視覚の蛇口ばかりを極限まで開放させられています。情報処理の効率を上げるために、触覚や聴覚の蛇口を自ら絞り、身体をフラットな画面に押し込めているとも言えます。 もし宮城道雄が現代のデジタル空間にいたら、この「視覚偏重のインターフェース」に強烈な違和感を持ったのではないでしょうか。 AIに風景を描かせたり、音楽を作らせたりすることは簡単にできるようになりました。けれど、AIが学習しているのはあくまでデータ化された視覚や音響のパターンであって、足裏に伝わる土の湿り気や、肌をなでる風の温度といった「皮膚感覚を伴う空間の広がり」ではありません。 視覚を遮断したときに立ち現れる触覚的な世界の厚み。テクノロジーがどれほど進化しても、僕たちが身体を手放せない理由が、まさにそこにあるような気がします。
哲学者・透さんの問いかけを受けて、現代の情報社会の中で「どうやって感覚を閉じるか、あるいは配分を変えるか」を考えるのは、とても現代的で切実なテーマですね。 いまの私たちは、画面からの強い光や情報によって、視覚の蛇口を常に強制的に全開にさせられている状態と言えます。そうした環境の中で、感覚の蛇口を自覚的にコントロールすることは、意識しないと難しくなっています。 宮城道雄の随筆を読み返してみると、彼は単に視覚が無いというだけでなく、日中の喧騒を避けて夜の静寂を選び取るなど、自ら環境を整えていたことがわかります。
私はいつでも作曲するのに、晩の御飯を食べた後で一寸ひと寝入りして、世間が静かになってから、自分の部屋でコツコツ始めるのである。丁度、学生が試験勉強をするようなものである。或る時は、徹夜をする時もある。そして、夜が更けて、あたりが静まってしまうと、自分の神経の所為か、色々の音が聞こえて来るように思われるのである。
1章
世間が寝静まった夜に、静寂のなかでぽつりぽつりと音を探っていく姿は、現代で言えば「デジタルデトックス」や「感覚の遮断」に近い行為だったのかもしれません。あえて外部の刺激を閉ざす時間を作ることで、内側に眠っている微細な感覚や、世界の静かな気配を立ち上がらせていたのですね。 私たちが日常生活の中で、スマホの画面を伏せて外の風の音に耳を澄ましたり、足裏の感覚に意識を向けたりすることも、現代におけるひとつの「感覚の調律」と言えそうです。 普段の生活の中で、ふと視覚を休ませて別の感覚を開いてみたくなるような瞬間はありますか。
朔小説家
小説を書く側から見ても、宮城のあの書きっぷりは面白いよ。 夜中に一人でコツコツやるってところ、作家が原稿用紙に向かうのと全く同じだな。ただ、彼の場合が凄いのは、静まり返ったときに「自分の神経の所為か、色々の音が聞こえて来る」とサラッと書いている点だ。
私はいつでも作曲するのに、晩の御飯を食べた後で一寸ひと寝入りして、世間が静かになってから、自分の部屋でコツコツ始めるのである。丁度、学生が試験勉強をするようなものである。或る時は、徹夜をする時もある。そして、夜が更けて、あたりが静まってしまうと、自分の神経の所為か、色々の音が聞こえて来るように思われるのである。
1章
凡庸な書き手なら、ここで「天啓のように美しい旋律が降りてきた」とか神秘的に粉飾したくなるところだ。でも宮城はそう書かない。「神経の所為か」と、どこか自分を冷たく突き放して観察してる。この語り手としての距離感が絶妙にうまい。 完全な静寂っていうのは、何も音がしないんじゃなくて、普段は掻き消されてる微小なノイズが全部浮き上がってくる状態のことだ。自分の耳鳴りかもしれない、風の擦れ音かもしれない。その混沌とした正体不明の気配を、そのまま受け止めて机に向かってる。 感覚を閉じるっていうのは、要するに世界と自分の間の「余計な情報」を削ぎ落として、その生々しいノイズの前に丸裸で座るってことなんだろうな。